新メンバーMasaruの身も蓋もない独り言①「生きづらいは自分のせい」
ゲイとして生きるってそんな難しいことなのかな?ノンケ、ビアンにゲイに多様な性が氾濫する昨今、わざわざゲイであることを公表することも否定することもないんじゃないかと思うのですが、どうでしょう?
区別を付けるのが正解なのか
はい、私はゲイです。そんなゼッケンを胸元につけてなくても、なんだかんだバレちゃうもんなんですね。例えば職場でクローゼットに働いていても、自分の言動、言葉使いに態度から性癖が滲み出てしまう。「ああ、アイツゲイなんだなあ」ってね。そんな感じです。私はそこまでオープンな性格ではないので、勿論自分がゲイであることをひけらかすことはありません。だからといって自分の殻だけに閉じこもって窮屈な思いをしているという訳でもない。ココロのどこかで自分のモヤモヤを叫んでしまいたい、そんな時だって勿論あります。
ただ最近思うのはわざわざ自分をゲイだのビアンだのと、線引きすること自体がおかしいのではないかと思うんです。小心者、雄弁、恥ずかしがり屋に怖いもの知らず、色んなキャラクターで私達の人となりを構築しているのと同様に、個々人の性癖だって色々なのは分かりきっていることでしょう?そこにわざわざ自分はゲイで、あなたはレズビアンと当事者が線引きをすることに、最近戸惑ってしまいます。幸せを見つけるのに性が障害になるのであれば、それはきっと幸せを感じきれない自分が性癖に責任を転嫁しているからだと思うのです。
空回りばかりの過去を考察
私は昔ある種の脅迫観念に駆られたことがありました。二丁目という魔窟でイケメンとオッサンの駆け引きばかり見つめてきたせいもあり、どうしても他人の目が気になってしまうのです。
「ああ、なんで自分はこんな不細工なんだろう。」
「~君みたいなカッコイイ容姿だったら、お客ももっとつくのに、人生もっと上手くいくのに!」
とこんな感じで自分自身の不甲斐なさ、社会生活に対する適合性のなさを、全て自分の容姿のせいにしていました。20代半ばで美活に目覚めたのは、自分自身の欠点を補おうと間違った概念で行動した結果が故……でも例えば誰もが羨む超絶イケメンに生まれ変わっても、自分は自分。きっと現状にあぐらをかいて、毎日不満をぶつける対象物を探し続けることでしょう。
苦しいから見えてくるもの
プチ整形に美肌作り、徹底した美を追求をした結果、確かに以前より自分を毛嫌いすることは少なくなりました。でもこれって自己満足にしか過ぎませんよね?もっと、もっとと思えば、泥沼にハマって動けなくなり、現状しか見えなくなってしまう。
そんな最悪な瞬間から抜け出せた方法が、苦悩という人生そのものなのです。偉そうに言うほど、社会経験豊富な訳ではないですし、仕事が出来るわけじゃない。スペイン語も対して話せず、英語もドンドン忘れてきてる……多忙で毎日が見えないそんな日常だけど、無意識に意識しているのが残された時間と幸せのあり方について。怖いけれど新たなチャレンジに挑戦してみる、考え込むという自己防衛を断ち切る勇気、そんな小さなステップが今の自分を少しだけ強くしている、そんな気がするのです。幸せは待っているだけじゃ来ない、どこかの歌手が歌ってそうなフレーズですが、確かにその通りだと思います。
不幸せ、幸せを感じ取るのはいつも己。ゲイだから、ビアンだからなんて関係ない。自分自身を区別して生き難く、そして幸せを感じられなくしているのは時に自分自身なんです。苦しい時、悲しい時、そんな時はナチュラルな自分のままガムシャラに走ることが大切なんだと最近よく思うようになりました。そんな風に思えることを成長したな自分!と思う一方で、結局自分年とっただけジャン!と耳打ちする悪魔がとても耳障りでなりませんが。苦笑。。。
まとめ
ゲイだとかノンケだとか関係ない、人間の幸せは何に対しても縛られない。LGBTという世界は時に辛い瞬間があるのは事実、だけれどそこで立ち止まらずにいれば、自ずと小さな幸せを大きな幸せに感じ取れるはず、と私は思っています。