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2018年2月25日完 パイオニアのご愛読ありがとうございました!

生まれた場所、肌の色、瞳の色〜人の心に必ずある?差別と偏見〜

2017/05/05

こんにちは!カナダからCocoです!最近衝撃を受けたのは、某航空会社のオーバーブッキングで男性を引きずり下ろした事件。ランダムに選んだと言われる降りてもらう乗客全員がアジア系だったようで、人種差別も問題視されています。今回は、差別や偏見についてです。

最近仕事先のミーティングでの同僚Bの発言。「もう日本人はいいよ、日本人はCocoがいるし」

これは求人の話題になった時、「この間、履歴書を受け取ったよ、日本人の人だったよ」という別の同僚の発言に対しBが言った言葉。ちなみにBはオーストラリア出身で、職場にはオーストラリア出身のの同僚が3人います。

彼女がどういう意図でそんなことをいったのかはわかりませんが、なんかちょっとショック。

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私の住むバンクーバーは他国から留学、ワーキングホリデーで他国から訪れる人も多く、さらに移民の方が多いのでたくさんのバックグラウンドを持つ人が暮らす場所。

そんなことも関係して、それぞれの生まれ持った肌の色、目の色つまり人種で差別、偏見を持つ人は極端に少なく、英語が流暢じゃなくても馬鹿にされるなんてこともそうそうありません。

それでも「さすが!差別や偏見なんて全然ない」とは言い切ることはできません。

住んでいて他人からの差別や偏見を感じないと言えば嘘になりますが、いちいち気にしていては仕方ないと、気づかないふりをしています。

大体、それらは私が日本からやってきたからこそ感じるのかもしれないし、英語がまだまだだから感じるだけなのかもしれません。だから気づかないふり作戦をします。

でもそれは人種や言葉の壁をなくしても、つまり私が日本にいても、同じことです。

そんな気持ちは決して今に芽生えたわけでなくはるか昔、幼稚園や小学生ごろからあったはず。

男、女、背が低い、背が高い、お金持ち、貧乏、かわいい、かわいくない。自分が持っているもの、持っていないもの。そんな「違いや差」は生まれたころから何かしらあるもの。

私達人間の心にはそんな違いから人を無意識、本能的にグループ分けする心があるよう。

とある実験では、2体の赤ちゃんの人形を使って子どもたちを対象に質問を投げかけます。

肌の色が黒い人形と肌の色が白い人形。それらのどちらかを選ぶ様に、子どもたちに質問をする。その質問は、

「どっちの人形が悪い子?」

「どっちの人形がいい子?」

「どっちの人形がかわいい?」など。

 

すると子どもたちがネガティブな質問に対し指差すのは肌の黒い人形、ポジティブな質問には肌の白い人形を指差す。肌の色が黒い子どもたちも、肌の黒い人形が悪い子だと答える。

以前と比べると、差別や偏見はだいぶなくなったと言える現代。それでも垣間見える差別や偏見の影。

人々は、そんな影をなくそうと切磋琢磨し色々な解決策を試します。

しかし差や区別に無理やり蓋をしようとすると、歯車は狂い始めて結局おかしなことになってしまう気も。

運動会のかけっこで、みんな一緒にゴール。演劇会で白雪姫が6人いる。などが良い例で、そんなことをしても人間の本能を変えることにはならないような。

そう、考えすぎると差やグループなんてそこら中にあって、キリがない。

例えば私はカナダに来る前、カナダ人はみんな明るくて、なんでもウェルカムで、楽しいなんて勝手なイメージがありましたが言ってしまえばそれも偏見。あなたは日本人だからよく働くねと言われるのも、友人を誰かに紹介する時に、「私の友達〇〇人のサマンサです」などと名前の前にその友人がなに人であるかという情報を付けるのも失礼かも...

そんな風に言い方や状況、捉え方でいい意味、悪い意味に変わるような微妙なラインがたくさんあって、それを気にしすぎると余計に不自然だったりもします。

もちろん生まれた国の文化や環境によって持つアイデンティティもあります。

だけど、例えば日本人がみんな勤勉でおとなしいかと言われればそんなこともない。どうしてもステレオタイプでのイメージはあるもののそれぞれひとりひとりと話すと違ったり。

じゃあどうすればいいんだろう

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どうすればいいかなんて、正しい方法はきっと誰にもわかりません。

でも私はカナダに来てから、感じ方が変わりました。日本で、他の国の人たちとほぼ接したことのなかった私はひとつひとつの国に対して「この国の人達はこう、あの国の人達はこう」とまさしくステレオタイプでしかないイメージを持っていました。

しかし、カナダに来て、遠くて未知の世界だった色々な国出身の人たちと接し、その人たちは私のクラスメイトだったり、同僚だったり、友達だったりするようになりました。身近になってみると、どこ出身の人であろうと、気が合う人はとっても合うし、合わない人はとことん合いません。

つまりだだそれだけのことなんです。

普段なら仲良くなるようなタイプの人じゃなくても、職場の同僚やクラスメイトなら、一緒のグループに属し何かをしていることで話題も共通、親近感が湧き仲良くなる。共通の趣味があれば年齢なども越えて仲良くなる。

個人的に思うのは、きっと人は「知らないこと」に恐怖を感じてしまい踏み込もうとしないんじゃないかなということです。少なくともカナダに来て色んな国の人と出会い知ってから、彼らが前ほど遠い存在ではなくなり、共通点もたくさんあって、くだらない事で笑い合っていると「なーんだ、結構みんな変わらないなー」と思うようになりました。

なので以前もっていた「この国の人達はこう」という私のイメージはぶち壊れたのです。

それぞれの文化などでお国柄というものはもちろんあると思いますが、個人個人と接すには、それもあまりあてにならなかったりします。

個人的にはクスッと笑えるような共通点、同じ趣味、文化を越えて1人の人として見てみることがキーワードかなと考えております。

後は、その人の立場、あるいは自分の大切な人だと思って物事を見てみること。

例えば某航空会社のオーバーブッキング事件の報道を見て、被害にあった男性をみてショックで悲しい気持ちになったのですが、その後に被害者の男性を自分のお父さんだと思って想像してみました。もっとショックで悲しく、悔しい気持ちになりました。

差や区別を完璧になくそうとするのではなく、個人が違いに対してどういう見方をするのかで変わることがたくさんあるかもしれません。

皆様はどう思われるでしょうか?次回は私がカナダで感じた差別や偏見の実体験についてです。

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