マイノリティとマジョリティの話〜LGBTとベジタリアンそしてカナダ〜
2017/12/13
こんにちは、Cocoです!マジョリティとマイノリティ。どこに行っても、口に出さなくても、そいつらはいつでもそこにいます。日本人である私は、カナダというこの地ではどっちかといえばマイノリティ。でも、日本で生活している時のほうが「自分はマイノリティなんだ」とより感じていたことがあった気がします。
マジョリティから外れた時
私は、いわゆるベジタリアンというカテゴリーに入ります。物心ついた頃に、肉類や魚類を食べるのをやめた、というか突然食べられなくなってしまいました。そしてそのまま現在も食べることができません。しかし、それは決して健康のための決意などでは無くきっかけはこんな出来事でした。
幼き私は母に連れられスーパーへ。お肉が売っているセクションに行く。
豚、牛、鳥のかわいいイラストが描かれた看板を発見してしまう。
私「かわいいなあ、動物すきすきっ!」
するとそのすぐ側に、スケルトンで内蔵が色分けされていて、どこがどの部位かを説明した牛の全体像のイラストを新たに発見。
私「え?もしかして食べてるお肉ってこのかわいい牛さん…?!いやぁぁぁ!!」
かわいい動物たちのイラストとスケルトンの牛さんと、目の前に並ぶ血や骨のついた赤い肉が並ぶ光景は、その頃の私にとってはホラーでしかありませんでした。
動物を殺して食べていると自覚したと同時に気持ち悪さが勝って、お肉、お魚など生きている物が食べれなくなってしまいました。見た目がエグくないのでなんとか食べれていたソーセージなどの加工食品も成長するにつれて食べれなくなる始末。
これは、長年に渡り私を悩ませるタネに。給食で焼き魚や肉のおかずが出ると、どうやって先生に見つからずにそれを給食袋に入れて持って帰るかを必死で考える日々。そんな行為は先生にはお見通しで、コソコソ残しているのが見つかれば教科書で頭を叩かれたし、口に入れて噛んで飲み込むまで席を立つ事は許されず。クラスメイトたちみんなが食事を終えてからの掃除の時間もポツンと1人で机に座り、どうしても食べられないおかずを眺めるしかできず。むりやり口に入れて、みんなの前で吐いてしまった時は恥ずかしすぎてそのまま帰りたかったのを覚えています。
家庭訪問の度に、先生から「教育がなっていない」と母が責められているのを見て悲しかったのも覚えています。先生やクラスメイトからすれば、私は『変わっている子』だったのでしょう。
『肉や魚が食べられない』なんて学校の中では自分だけだったし、みんなに『変わっている、普通じゃない』という目を向けられることも恐怖だった。今となっては何でもないことだけど、幼い時はもっと敏感だから変な子というレッテルを貼られたくなくて、どうにかお肉もお魚も食べれるようにと練習したけどやっぱりだめ。
気づけば学校の中で、私は完璧にマジョリティから外される立場となっていました。
マジョリティ集団に紛れるマイノリティ
怖いのは、自分もマジョリティの中にいないといけないと思い込んでしまうこと。学校など集団で過ごす場所では、どうしても人数の多いマジョリティが強い立場、もしくは彼らがこそが常識であるという錯覚に陥ってしまうことです。
私の偏食の問題も、大人になってからもつきまとうものでした。「肉、魚が無理なら一体何食べてるの?!」という質問は今までに5万回くらいされたし、もちろん珍しいことだから、そんな質問をされることに対してはなんとも思わないんですけどね、ちょっと面倒くさいけど。笑
しかし厄介なのはお説教。ベジタリアンなんて言葉もまだ浸透していない時代。私の偏食ぶりを知った瞬間にここぞとばかり猛攻撃してくる大人たちがいました。
「どんな育て方をされてきたんだ」「ただのわがままだ」「子どもが産まれたらどうするんだ」「食べないなんて一緒に食事しても楽しくない」
更には「食べてみろ」と無理やり食べさす人もいれば、「そんなことでは胸が育たない」なんて言うセクハラジジイもたくさんいました。
焼肉屋にいっても、冷麺やビビンバを食べるし、肉が入っていてもよけて食べるので自分ではそんな面倒くさくしているつもりはなかったけど、面倒くさいと思われてるんだろうなーと感じて、みんなで外食に行く時も、どこか後ろめたさを感じていました。
打ち明けなければ知られることもないわけですが、人間関係と食事はなかなか切り離せないもので、黙っていても最終的には偏食であることがばれて、隠していた分よけいに変な感じになったり。外食の時に、肉抜きでと頼むと、店員さんにも変な顔をされることが多かったです。当たり前かもしれないけど。笑 そんなことから大人になっても何度も食べる練習をしたけど、食べれるようになんてならず。
今思うと食べたくないなら食べなければいいだけの話なのですが、私はそこを大げさに捉えていて、ずっと自分が悪いとか変だとか思っていたし、食べないことを大人に言うことが恐怖ですらありました。
何人かの大人たちの否定の言葉だけを丸呑みにして、マイノリティである自分はダメなんだと思い込んでしまっていました。
カナダに来たらベジタリアンでいることが当たり前以上のことになった
日本でも、今でこそベジタリアンという言葉が普通だけど、昔は本当にベジタリアンであることは変なことでした。私が今住んでいるカナダでは、ベジタリアンはもはやマジョリティ。
だからワーキングホリデーで初めてここを訪れた時(10年ほど前)は、本当にびっくりしました。ほとんどの飲食店でベジタリアンメニューがある!ラーメン店でもスープも野菜だけでダシをとった『ベジらーめん』なるものまでが存在する!天国でした。笑
とあるカフェで、コーヒーを買ったお客さんが「豆乳が欲しい」と言っていて、豆乳は置いてないですと店員さんがいうと激怒しているお客さん、という場面にも出くわしました。どうやら彼女は乳製品もとらない主義(ビーガンと呼ばれる)らしかった。
それがきっかけで、後日そのカフェにはに豆乳が用意されていました。今やビーガンの為に豆乳やアーモンドミルクなどはもちろん、卵や乳製品を一切使っていないメニューを用意している飲食店の方が多くなってきています。
もちろんマイノリティの人も考えろ!と手当たり次第にマイノリティを主張するのは厚かましいのかもしれません。
だけど、マイノリティである人のことを考えたアイディアのあるお店などに出会うと、こころがほっこりする。マジョリティが基準でことが運ぶのには変わりないけど、この狭いようで広い世界では、場所が変わるとマジョリティとマイノリティは突然入れ替えわったりもする。
そしてここカナダではベジタリアンもLGBTもマイノリティではもはやない世界。
マジョリティの基準でしか世界は動かない
マイノリティであることは、決して弱いことでもなければダメなことではない。
しかし、どうしたってこの世はマジョリティを基盤に動いています。決してそれが悪いことなわけではないし、どうのこうの言ってもしかたないのかもしれません。
例えば、ベジタリアンメニューのないレストランで「なんてこった!ベジタリアンの人はどうすんだ!ベジタリアンのことも考えろばかやろう!」なんて個人的には言えないし、言う気もありません。(言っちゃう人もいるけど)
大人数の人が求めるものを商品にするのがビジネスだし、どんな場所でもより多くの人の意見が尊重されることはある点では仕方がないことだと思う。何に置いても全てが平等というのは現実的ではありません。
厄介なのは、なぜか人間はマイノリティである人を見ると、マジョリティであることだけが理由で自分が優位に立った気になってしまう人が多い。マイノリティである人を「変わってるよね」と変人扱いし、時にはマイノリティである人を目の前にするとたちまち自分が偉くなった気がして、お説教をしたり批判し始めたり。
きっと、自分の考えは常識的だとそこで自分の優位性を確かめているんだろうなあ、と思います。
それは非常にやっかいな人間の心理であって、そんなことでいちいち否定される側は面倒くさくてしょうがない。面倒くさいで終わればいいものの、そんなマジョリティからの言葉や態度がきっかけで酷く傷つく人だってたくさんいる。
まとめ
ベジタリアン、セクシャリティ、自分の肌の色、好きなタイプ、細かく細分化すれば、きっとみんなどこかしらにマジョリティな部分もマイノリティな部分も両方持っていると思う。
さらに世間での常識や普通なんてものは時代によって変動するし、なんとも曖昧なものです。それでも『マイノリティであるから差別や偏見の対象にする』という行為は、そんなことだけを理由に攻撃する人たちの弱い心を映し出しているのではないでしょうか。
『普通や常識』から外れたくないという気持ちからみんなと同じであるべきだと時には自分を誤魔化してマジョリティの中に紛れ込み、マイノリティを下に見てバカにしたりする。みんなと違うことを恐れすぎて、とりあえず周りに合わすという気持ちもわからなくはないですが、それはなんだかかっこわるい気がします。
ずっと偏食であることというちっぽけなことを気にしすぎて生きていた私も、カナダに来たのをきっかけにそれは何でもないことになりました。
それは、ベジタリアンにおいてもLGBTにおいても『そういった人たちもそうではない人たちもみんなができるだけハッピーに』というアイディアを大勢の人が好んで実行しているからだと思います。
きっとみんな何かしら、自分はみんなと違う、おかしいのではないかと葛藤する出来事があると思いますが、そんな時に思い出したいのが冷たい視線もところ変われば暖かい視線に変わるってこともあるわけだし、マイノリティであることだけを理由にどーのこうの言ってくる人の方が弱い心の持ち主であるということ。
少なくとも私は日本を離れてから、自分のマイノリティの部分を嫌い隠そうとしていた頃の自分はいつの間にか消えていました。
他人にどう思われるかを気にする前に自分の好きなものを選択して、好きなものを好きだと胸を張って言える。他人の違いも受け入れられる。カナダのおかげで、そういう世界に少し近づけたのかもしれないな、と思う今日この頃です。